「ROVO dohb discs YEARS」


ROVOは1996年に結成して、1997年から現在のメンバーでライブを開始しました。1998年にSONY MUSIC内の12inch Vinyl 専門レーベル「ROARS RECORDING」から、「VITAMIN! / CISCO! 」でデビュー。
1998年に、その2曲とそれぞれのセルフリミックスの計4曲でのミニアルバムをEPIC SONY 内のレーベル「dohb discs」からリリースする事になり、ここからROVOの「dohb discs YEARS」が始まりました。

その1stアルバムが「PICO!」です。
「VITAMIN!」のリミックスを山本さんが担当して「YVMA!」が、「CISCO!」のリミックスを僕と益子君で担当して「DAKRA!」が作られました。

ROVOは山本精一さんと僕とで結成の話をした当時、出来るだけ記名性を無くそうと考えていて、メンバー全員が、ROVO1号、ROVO2号、… と名乗るつもりでしたが、このアイディアはあえなく挫折します。
何故なら、本人と解らないようにするコスチュームのアイディアも無く、誰から見ても山本精一や勝井祐二とわかる状態でステージに立っていたからです。
今となっては、僕自身ROVO2号じゃなくて良かったと、本当に思いますね。

もう一つ結成当時から考えていて、今でもそうしている大きな考え方の幹は「自分達でやる」という事です。
作曲演奏はもちろん、録音、ミックス、プロデュース、アレンジ、リミックス、デザイン、マネージメント、総て自分達で自分達のタイミングでやる。
これがROVOの結成当初からの立脚点でした。
ライブの場面でも、シーケンサー全盛の時代にあえてそれを使わないで、全部人力で演奏する事が僕らのルールだった。

当時、「dohb discs」(以下、略してドーブ)は下北沢に事務所が有って、そこに色んなバンドやスタッフが集まっていたのです。
EPIC SONY本体をNYCのウォール街だとすれば、ドーブはジャマイカみたいなゆるい所でした。
その事務所に、詰めたら4ピースのバンドが入れるくらいのブースが1つ、コントロールルームと、2部屋のスタジオが有ったのです。
まだプロトゥールズ以前の話ですが、このスタジオを使うのは基本的にドーブ関係のバンドだけだっだし、その人達が使うときは管理のエンジニアさんに立ち会ってもらってやる事になっていたので、その人の都合に合わせなくてはならず、使用者が少なかったのです。ROVOはメンバーの益子君がオペレーションが出来るので、24時間いつでも使えるという環境を手に入れたのです。

これは大きかった。

そもそも「PICO!」発売以降、ドーブからフルアルバムを出そうという話になっていて、その時に「PICO!」 でのセルフリミックスの経験から、その面白さと可能性を実感していたので「録音時に曲として成立していなくても、ポストプロダクションでどんな可能性も試す事が出来る!」という考え方を前提に、いつでも使えるスタジオが有るという環境を手に入れて「imago」 は制作が始まりました。
しかし、ROVO全員でのバンド演奏を録音するにはドーブスタジオは狭すぎたので、外部の大きなスタジを3~4日間借りてベーシックになる録音を一気にやりました。といってもほとんどがドラムスの録音が主で、後はドーブスタジオでダビングして行こうと考えていたからです。しかも、曲として構成が成立しているものはほとんど無く、ほぼリズムのアイディアや、思いつきだけで録音を進めて行きました。
「こんなリズムを2人で叩いてほしいのですが。」と芳垣さんと岡部さんに頼むと、
「長さはどのくらい?」
「んー、とりあえず10分くらいで!」
「 … 」
このような会話がなされて、様々なテイクを録音して行き、ベーシックの録音はあっという間に終了。

さて、ここからが本来の意味での「dohb discs YEARS」が始まります。
いくつかのリズムのアイディアやセッションを元に、これらはどんな曲になるのだろうか、という可能性を考えて探って行く、という作業から始まりました。
いくつかの可能性を平行して同時に進めて、必要なダビング/ミックスをして、方向性の候補を1曲につき4~5パターンは作って行く。その中から一つの方向性に絞る為に更にポストプロダクションを重ねて、作り込んで検討して行く。そして決定した方向性に必要ないと判断されたダビングパートは容赦なく切り捨てて行く。
という気が遠くなるような作業をスタジオに籠ってやって行ったのです。もちろんダビングには山本さんや原田君やみんな時々来てくれていたけれども、ほとんどは益子君と僕の2人で籠っていました。
僕らはあらゆる曲に対してあらゆる可能性を考えていて、ある時など山本さん原案の山本さんのギターのリフが曲のメインの構成要素になっている、というかそれそのものが曲の幹であるような曲の、ギターを総てカットしたミックスを作った事すら有ります。
流石にこれはボツになり、この曲は山本さんが大阪でミックスを完成させました。
こんなやり方で進めた「imago」には曲によって参加していないメンバーがいる場合も有った。メンバーはドラム、パーカッションの2人しか参加していないという曲も有ります。
この「imago」を今年(2013年)メンバー揃って聞き返した時に「何だこれは!」と、全員で爆笑しまし た。当時のアイディアの純度が凄く高かったのでしょう。今聞いても新鮮で、奇妙でカラフルな音世界が詰め込まれていると思います。

ドーブには当時「スーパーカー」も所属していて、青森からデビューの為に上京して来ていた彼らは他に行く所も無いのか、いつも事務所のロビーに居たので、僕らと一緒に過ごす時間も多かった。
ある時、彼らもスタジオ作業に入る事になり、ブースの方に彼らは自分達の機材を持って籠り、僕らはコントロールルームに籠り、間のガラス窓越しに「おーい!」と手を振ったりしながら過ごした日々も有りました。

この作業は11ヶ月に及び、制作途中にドーブのROVO担当者(現マネージャー)が人事異動になるという事になってしまったのです。その送別会が事務所で開かれていた時も僕らはスタジオに籠っていました。時折、ふとスタジオのドアの窓から事務所~ロビーの方に目を向けると、何故かその送別会は仮装コスプレ飲み会になっていて、セーラー服を着たフルカワミキちゃんや、ガンジーのコスプレをしている担当者本人が横切る姿を横目にミックスを続けていると、夜中にはドアの外がコスプレした泥酔者ばかりになっていた事も良い思い出です。
しかも異動になった小川君(現マネージャー)は「imago」の作業が終わるまで、異動先に出社拒否。ドーブに自主的に残り続けて、完成を見守り続けました。

こうして、1999年に「imago」リリース。
先行12inch Vinyl「HORSES ! / KMARA ! 」は、リリース記念ライブの前に総て出荷してしまってドーブに在庫が無くなり、ライブ当日にみんなで手分けしてまだ売れ残っているレコードを探して、見つけた何枚かを買って来て会場の物販に並べるといった事もありながら、すかさず次の作品に取りかかって行く事になりました。それが「PYRAMID」です。

実は「PYRAMID」のバンドサウンド部分は「imago」のベー シック録音時に録れていました。
ただ、そこから「PYMAMID」という作品に仕上げるのにはやはり時間がかかり、4ヶ月くらいの時間は必要だったと思いま す。
「imago」と「PYRAMID」は性格の違う双子のような関係にあるのだと、今から振り返るとそう思います。
「imago」は様々なリズムや音響的な実験を、シンプルな曲の構造に詰め込む事で空間性を獲得している。そしてそれらの曲が総て繋がっていて、次の曲に続くと違った世界観に移行して行くという、DJ的な発想で成立しているのに対して、「PYRAMID」は長い1曲で大きな世界観を表現する事で、時間の流れが必然的な意味を持って立ち現れて来る。それが「imago」には希薄だった肉体性を伴っていて、長い時間をかけて大きなカタルシスへ導いて行くという、バンドサウンドならではのダイナミズムが「PYRAMID」を成立させている大きな要因だからです。

2000年「PYRAMID」リリース。
「PYRAMID」を制作した後に、初めて「FUJI ROCK FESTIVAL」への出演が決まりましたが、その出演の前に突如ドーブは解散という、EPIC SONY本体の決定が下されて、あっさり「dohb discs YEARS」は終わりを迎えました。
初期ROVOというくくりが有るとすれば、まさにこの3枚のアルバムを制作した「dohb discs YEARS」がそうなのだと思います。

勝井祐二